~イントロダクション~
日本遺産(Japan Heritage)をご存知ですか?
平成27年度から文化庁が公募し、審査、認定している事業です。その主旨は「地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを『日本遺産』として認定し、ストーリーを語る上で不可欠な魅力ある有形・無形の様々な文化財群を総合的に活用する取り組みを支援します。」(文化庁HP日本遺産事業についてより抜粋)と示されています。これらは、地域活性化ならびに海外発信の側面を持っています。初年度である平成27年は全国から83件の申請があり、18件が認定されました。さらに平成28年度は、67件中19件が認定を受けました。その19件の中に福島県内のストーリーが2件選ばれました。そのひとつ、未来を拓いた「一本の水路」―大久保利通“最後の夢”と開拓者の軌跡 郡山・猪苗代―。新協地水が本社事務所を構える郡山市を舞台に繰り広げられるストーリーを144年の時を超えて辿りました。
1.『一本の水路』とは... タイムスリップ
今となっては道路が整備され、事務所から猪苗代湖まで1時間とかからずに辿りつくことができますが、時代は明治。明治維新~富国強兵~殖産興業の流れを経て、福島県も本格的な開拓に乗り出します。明治6年当時、開拓の中心となったのが、地元富商たちが結成した開成社でした。
開拓事務所が置かれた開成館は、西洋風の建物で象徴的な建物です。現在は安積開拓を中心とした郡山地方の民俗資料が展示され、開拓官舎(旧立岩邸)、安積開拓入植者住宅(旧小山家)とともに一般公開されています。開成社員は積極的に西洋文化を取り入れつつ、開拓を進めます。明治9年、明治天皇の東北巡幸の下見に訪れた内務卿(内務省の長官。初代は大久保利通。1885年(明治18)内閣制度創設とともに内務大臣となる。)大久保利通は、県と開成社の官民一体の開拓事業の成功に感激します。大久保は殖産興業×士族授産のモデル事業を他に先駆け、安積の地で実施しようと決断します。明治11年、政府は予算計上し、事業開始目前で大久保は暗殺されてしまいます。しかしながら、大久保の最後の夢は、政府・県・地域住民たちで実現されるのです。明治11年、九州の久留米藩をはじめ、全国から9藩の士族と家族合わせて2,000人が入植してまいりました。開成山大神宮は、伊勢神宮から分霊を受け、心の拠り所でした。
明治12年、この開成山大神宮で起工式が行われ、いよいよ「安積開拓・安積疏水開さく事業」に着手しました。猪苗代湖は標高514mと日本有数の標高の高い湖で、54.0?の豊富な水を湛えています。その水を降水量の少なかったとされる安積原野へ通したいという思いは、はるか昔からの人々の夢でした。オランダ人技師ファン・ドールンの協力を得て、総勢約500人が工事に参加しました。その甲斐あって、疏水工事は約1年で完成しました。監修していたファン・ドールンは、この工事により、近代土木技術を我が国に初めて導入することに成功しました。最先端の機器を使用した実測データを用い、科学的に検討を行ったのです。しかしながら水路工事最大の難関は、安積原野に一気に水を流すために、奥羽山脈に全長585mのトンネルを掘ることでした。そこで使われたのが、外国の最新技術であるダイナマイト、セメントなどでした。国内で初めて用いたのです。後々の那須や琵琶湖疏水にも役立てられました。こうして猪苗代湖の水は安積原野まで通水され、それまでのコメの作付面積を2.5倍まで大きくしました。収穫量は実に10倍にも増え、文字通り枯渇した大地を潤すこととなったのです。また、猪苗代湖と安積疏水の落差は発電にも活かされ、明治32年に沼上発電所が造られ、国内初の長距離高圧送電にも成功しました。しだいに学校や銀行、鉄道も整備され、郡山市の産業の発展につながりました。
2. 開拓者の見た景色をさがしに
最初に疏水工事のスタート地点である十六橋水門を訪れました。国道49号線を会津方面に向かい、猪苗代湖を後ろに観始めるあたりを北へ入ります。すれ違えないほどの道。雪で両脇を挟まれ、対向車におびえながら進むと、やがて車は細い橋の前に出ます。その北手が十六橋水門、“これか。”見つめるのはファン・ドールンの銅像です。雪の中にぽつんと立つ姿が寂しげではありますが、いつの日もわたしたちのために水門を守りつづけています。戦時中は、金属類の強制供出命令により、敵対国人であるドールンの銅像もその対象になり、撤去される予定でした。当時の安積疏水常設委員渡辺信任は、非国民と罵られても安積疏水の恩人を戦場へ送ることはできず、付近の農家から人夫を集め銅像を山に埋め隠し、それぞれにいくらかの金を渡しきつく口止めして、憲兵隊による度重なる追及にも「知らぬ存ぜぬ」で通したそうです。やがて終戦となり、2年前に埋めた銅像を苦労して探し当て、元の台座へ取り付けたそうです。
国道49号線へと戻ると、安積疏水の水の流れと同じように郡山方面へ向かいます。しだいに左手に沼上発電所が望めます。道路とトンネルが整備され、雪があっても走行しやすい道です。さらに郡山市街地へ向かうとしだいに広がる景色に雪は少なくなります。国道49号線を郡山市開成まで走らせると、道路を挟んで左が開成山公園。右側が開成山大神宮となります。いずれも新協地水の本社事務所からは車で駅方面へ向かい、10分ほどの場所にあります。開成山公園には開拓当時に開成社によって約4000本の桜(ソメイヨシノ・ヤマザクラ)が植えられました。郡山市有数のお花見スポットです。
開成山大神宮では当時、安積開墾の起工式、竣工式が行われました。弊社も毎年仕事始めには、こちらで安全祈願を行っています。この日も参拝客が見受けられました。大神宮から一旦丘を下り、南手の丘をさらに上がると、開成館が見えてきます。郡山市近辺の小学校では、社会科見学で訪れることが多く、私も実に約30年ぶりの訪問。
ひんやりとした開成館内。古い木造らしい匂いがたちこめます。下足を脱ぎ、スリッパは禁止されていますので、靴下のまま床へ。1階は開成館の歴史、明治時代の郡山市の農業の様子。養蚕が盛んだったことや、当時の衣服と農機具が展示されています。わらじ、幼少のころは実家で見かけたような、、、と思いを巡らせて進みます。他にも郡山市ゆかりの文学家たちの紹介スペース(久米正夫、宮本百合子など。また別の機会でご紹介)があり、順路は2階へと続いています。階段の段差がきついこと。手すりを頼りに上がりきると、主に安積疏水開さくの資料やパネルが展示されています。子供の頃訪れた場所に大人になって再訪すると、「こんなに小さい場所だったかな」と思うこともありますが、開成館は別でした。しきりのあった1階に比べ、2階はひとつづきになっていますので、広さに驚きます。どこの藩から郡山市のどのあたりに入植してきたのか。生活に係る文書の展示。安積疏水の管路がどこを通っているのか分かるジオラマ。何度か行きつ戻りつして見学し、さらに3階へ。3階は明治天皇の巡幸(天皇が各地をまわること)に関する展示です。3階には玉座が造られ、明治9年には行在所(宿泊所)として使用されました。その玉座の様子が再現されています。そのほかに開拓に携わったゆかりの人々の紹介もあります。もときた階段を下り、屋外へ出ます。敷地内には、開成館のほかに3軒の入植者住宅があります。当時のまま復元されたものです。内部も見学でき、暮らしぶりを垣間見ることができます。安積開拓官舎(旧立岩一郎邸)は、現代でも憧れるような広さと和の優しさがあります。まだ訪れたことが無い方はぜひ郡山の歴史に直に触れてみませんか。また、何十年かのブランクがおありの方も新鮮な気持ちで見学することができます。
そして安積疏水は、麓山の飛瀑へと流れていきます。この場所は、昨年本誌春号の表紙でも取り上げました。郡山市立図書館隣、麓山公園の一角に築かれた石造構造物で、約1.8mの越流部を突起付石積柱で挟み込み、その両脇に土留壁、底部に水叩き及び水路を石造で築いたものです。安積疏水事業の記念碑的建造物となっています。猪苗代湖から引かれた水が勢いよく流れおちている様子が望めます。
猪苗代湖の水とともにめぐった旅はここで最終地点となりました。
3. 開拓のまち郡山
大久保利通を惹きつけ、入植者の心を開拓に向かわせた郡山の魅力とはなんだろうか。みんなのタウン誌『街こおりやま』の伊藤編集長に話をお聴きしました。伊藤編集長には、平成28年10月の弊社社内行事にて一本の水路に関しての講演をしていただきました。それがきっかけで今回の掲載の運びとなりました。
阿部:平成28年7月号の街こおりやまに『一本の水路』のテーマで掲載されましたが、どのような思いがありましたか。
伊藤:安積疏水は、明治政府初の国営事業であり、日本三大疏水のひとつです。(他に琵琶湖疏水、那須原疏水。最初に造られたのは安積疏水)昨年日本遺産となりましたが、まだまだ郡山の人々も関心が薄く、もっと知っていただきたく取り上げました。
阿部:郡山で入植者と開拓が成功したのは、どうしてでしょうか。
伊藤:大久保利通氏が残した殖産興業からの士族授産で当時全国から9藩が入植しましたが、武士ですから、気位も高かったようです。郡山は昔から太っ腹な性分で、色々な人々を受け入れる柔軟性を持ち合わせており、その気質が現在の発展の源です。
阿部:ひとことで郡山の魅力とはなんでしょうか。
伊藤:商工農のバランスがいい街ですね。
阿部:伊藤編集長、お忙しい中貴重なお話をありがとうございました。