私の趣味は登山。山でのリスクは、道迷いや滑落転倒そして野生動物の襲撃など様々ある。恐怖に直面したとき、できるだけ冷静な行動を心がけている。2018年秋に、尾瀬の名峰燧ガ岳に登った。最高峰の柴安〜で、心穏やかに風景を眺めている時だった。妻が何気に言った言葉が、私を恐怖のどん底に陥れた。
2005年秋から健康のために始めた禁煙と弁当持参が功を奏し、コンビニへ行く回数が極端に減った。そして年齢とともに飲み会も減り、少しずつ小銭がポケットにたまりだした。そして、一日の終わりに、円筒形の貯金箱に100円と500円玉を入れるのが日課となり、いつしか貯金箱が4缶になった。ずっしりとした重量感に耐え切れず開けてみると、大台を超えた小銭が入っていた。このまま机の中に置くのも不安のため定期預金にして、肌身離さず通帳を持ち歩いていた。
久々に妻と酒を酌み交わした時、酔った勢いで、だらしなく「俺ヘソクリいくらあると思う」「内緒」と、話をしてしまったらしい。それから数か月が過ぎ、顧客との打ち合わせで急遽東京へ出張となった。予定外であったため、時間に追われ慌てて新幹線に乗った。一息ついて資料を整理、すると鞄を変えてきたためお気に入りの名刺入れがないことに気づいた。私の性格は几帳面で、あるべきところにあるべき物がないと、仕事に集中が出来ない。すぐに妻に連絡をして、いつもの鞄の中を隅から隅まで確認してもらった。名刺入れはキチンと収納されていることを確認、商談は無事終了した。
2018年10月21日に1年ぶりに秋の尾瀬ケ原を満喫するため、燧ガ岳に登った。南会津の山々特有の甘い香りがする樹林帯を抜け、草紅葉と地とうの湿原を二つ超える。山頂直下のがれ場を過ぎると、最初の頂『俎嵓』に着く。周辺の山々の風景に心を癒されながら歩き、双耳峰の最高峰『柴安嵓』に登山開始から2時間47分で到着した。周囲を見渡せば会津駒ヶ岳、男体山や奥白根山をはじめとする日光連山、はるか彼方に富士山、尾瀬のもう一つの主役である至仏山が、黄金に輝く尾瀬ケ原の西南にたおやかな山容を見せている。眺望に満足していると、妻がニヤリそして一言「本当にヘソクリは大台を超えたんだね」一瞬背筋がぞぉーっと、秋風に冷えた体が震えた。「俺のヘソクリは」頭が空っぽになり、冷静を保てなくなり、下山時の記憶は完全に欠落してしまった。