福島県の中央部には大きな猪苗代湖があるが、この湖も磐梯山が5万年前の噴火で南西側に山体崩壊をし、岩なだれ(火山の専門用語では、岩屑なだれというが難解なので、以下、岩なだれと表記)を発生させて河川をせき止めてできたものである(図-1)。この噴火を翁島岩なだれと言う。
この火山は約70万年前から活動を開始し、その中で数回の岩なだれを発生させている。
1888年7月15日に発生した噴火は、大磐梯(現在の山頂)の北側にあった小磐梯が北側に山体崩壊をし、岩なだれを発生させて堆積し、河川をせき止めて桧原湖や五色沼湖沼群を作り出した。五色沼周辺で小磐梯の堆積物が100m以上となっている。この噴火では、
南東側にも同じような現象が発生していたが、あまり知られていない(図-2)。
磐梯山の噴火が1888年という明治の中期に発生した意味を考えてみたい。
もし、明治維新直後の発生なら、新政府に反逆した賊軍の会津藩の災害に、多くの日本人は同情を寄せたであろうか。江戸時代は藩それぞれが国であり、他の国とのつながりは弱かった。もし、明治の終わり頃の発生なら、その前の1891年には濃尾地震で7千人を超える犠牲者で、1896年の明治三陸津波では2万6千人を超える犠牲者が先に出ている。これらの大規模災害と比べると477人が犠牲となった磐梯山の災害は相対的に小さい。国民の関心も大きくなることはなかったであろう。
また新聞が政党新聞から大衆新聞に代わる時に発生した災害であった。大衆新聞はその時々の出来事をわかりやすく伝えることが主目的であり、火山災害は打って付けのテーマであった。当時創刊された朝日・毎日(当時は日日)・読売の3紙は記者を現地に派遣し、連日のように報道した。朝日は洋画家の山本芳翠を派遣し、詳細な噴火の絵を付録に付けた。読売は磐梯紀行という連載を行い、その中には写真撮影したものを銅版画におこし印刷し紹介した。これらの新聞などを通して多くの義援金も集められた。現在の貨幣価値でいくと20億円を超える額であった。中央集権国家に変貌する時代で、天皇からは現在の貨幣価値でいくと1億円の恩賜金が福島県に届けられた。