1.はじめに
今から20数年前、入社したての筆者を「時間があるから湧水を見にいこう」と社員集会前に先輩が連れて行ってくれたのが、今回ご紹介する「多田野水道」水源湧水池でした。関東から福島に来たばかりの私は、身近に湧水があり、かつて水道の水源として利用されていた話を聴き驚いたことを今でも覚えております。
今回、郡山発展の原点であり、私と湧水の交わりの原点でもある「多田野水道」水源湧水池に足を運びまし
た(写真-1、写真-2)。
2.湧水の位置について
郡山の中心部から湖南町に通じる県道6号線(郡山湖南線)を街中から西に進みます。市街地を抜けて東北道をくぐると田園風景が広がり始めます。そこから約3.0㎞進むと「郡山近代水道発祥の地」の案内板が左手に見えてきます。ここを左折すると「多田野水道」水源湧水池(清水池)を保存する清水池公園に到着です。
公園内には湧水池のほか、ここを水源とする水道の敷設事業に尽力した、郡山市近代水道の父といわれる今泉久次郎氏の胸像と水道発祥の地の案内板が設置されています。公園自体はこぢんまりとしていますが、里山の風景と郡山の近代史が調和する落ち着いた空間がそこにあります。
3.湧水池の歴史について
『古来から水に恵まれなかった郡山市では、現在の商工会議所にあった皿沼を用いた皿沼水道、高田地の井戸を水源とした山水道とここの清水池を水源とした多田野水道を当時の飲料水としていた。
現存する水源地はここ1箇所であり、明治23年5月から約22年間、松材のくりぬき管を使用した11,000mの木管水道に引水して郡山の水道としての役割を果たしたが、近代的な上水道の完成によって廃止された。水を求めてあらゆる努力を重ねた先人のたくましい姿がこの水源地に偲ばれる。』
案内板にはこのような歴史が紹介されていました。蛇口をひねれば水が出てくる今の生活からは想像できない苦労があったことでしょう。安積野開拓や安積疎水の完成等を含め、今の郡山が先人の努力を礎としていることを実感できる空間でもあります。
4.湧水の水質について
湧水を採水して実施したイオン分析結果を基に作成したトリリニアダイヤグラムとヘキサダイヤグラムを示します(図-2、図-3)。
イオン分析結果から、本湧水では硫酸イオンの溶存量がやや高く、トリリニアダイヤグラムでは温泉水の影響をうけるエリアⅢにプロットされました。
水源池の西側、相対的な上流側に該当する逢瀬町多田野周辺には温泉が複数開湯されていますので、地下水中への温泉水の混入を想定することができるのではないでしょうか。
5.地質と湧出機構
湧水周辺部の地質分布図を示します(図-4)。
地質図からは、この湧水池が郡山市の西側に広く分布する大槻層(礫・砂・泥層)が形成する大槻扇状地内に位置しており、扇状地内の湧水帯として周辺部には湧水が複数存在することが示されています。周辺の湧水についても機会を見つけて探してみたくなりました。
扇状地は、地下水が伏流して流れる場所であり扇状地の末端では集落が形成される場合が多いです。実際に公園から周囲を見回すと全体的に緩く傾斜しているかなと感じることができます。
広範囲で浸透した降水が扇状地内を流下する中、偶然のめぐりあわせで地表に湧出し、多くの人々に利用されてきたことは自然と人間の関わり合いが街の発展に必要不可欠であることを強く感じさせます。技術が発達した現代においても根本は変わらないことだと思います。
6.身近にある自然の恩恵を感じて…。
低地が連続する関東平野のほぼ中央部の出身である私にとって、福島に来た当初には湧水はとても遠い存在に感じられました。
今回の「多田野水道」水源湧水池をはじめ、これまで湧水シリーズの取材を通じ、数多くの湧水地に足を運んできました。綺麗に整備されている場所も多く、地元の皆様が湧水を汲みに訪れる姿から、それまで私が持っていた「湧水は特別なもの・・神聖なもの」というイメージは「湧水は生活のそばにあり、地元の人々とともに時間を過ごすもの」に変化しています。
場所が変わればその土地ごとの自然があり、自然との関わり合いのスタイルも変化することと思います。ただ、私達が足を運べばそこにあるという事実は変わらないと感じています。
20数年前の自分を思い出しつつ、新たな気持ちでこれからも湧水を訪問していければと、想いをめぐらすことのできた1日でした。
周辺の水田では多くの白鳥が羽を休めていました。人が近づいても逃げないことも驚きの一つでした。きっと、地元の皆さんとの信頼関係が築かれてるのでしょうね。