福島県の湧水シリーズ(その25) |
【所在地】 福島県双葉郡大熊町大川原地内 1.はじめに 春の訪れを郡山よりも一足先に感じようと浜通り地方にある湧水として、相馬郡大熊町の「小夜姫の涙」を訪れることにしました。
今回は国道288号線を使って訪れることにしました。郡山市から国道288号線をひたすら東に走ること約2時間で大熊町へと入ります。大熊町に入ってからしばらく走ると、国道288号線と市街地方向に向かう県道35号線に分かれるT字路にぶつかります。このT字路を右折し県道35号線を南下すると、右手に「坂下ダム入口(右折)」と書いてあるクマの親子の看板が見えてきます。看板の指示に従い右折し、左手に大山祇神社をみて間もなく山肌沿いの狭い道へと変化します。大山祇神社を過ぎて約10分程度で湧水アクセスのランドマークである「坂下ダム」に到着します。ダムの管理事務所のそばには湧水の由来を書いた木製の看板がありますので、湧水を訪れる前に由来を知ってみるのもいいと思います。ダム周辺の狭路を更に西へと進むと約5分程度で「小夜姫の涙」の看板と川沿いを進む林道への入口が見えてきます。
砂利道の林道を進むこと約10分、ダム方向へ南流する大川原川と東方向から合流する沢との合流地点へとぶつかり、町が設置した進入禁止のバーが見えてきます。ここから更に本流に沿って500mほど西へ進むと、右手に小さくてかわいらしい木製の鳥居と、岩肌から突き出した塩ビパイプの先から流れ出る湧水が見えてきます。これが「小夜姫の涙」です。
3.地形・地質概要 日隠山は東部阿武隈山地の内、ほぼ南部方向に伸びる2つの平行した構造線−畑川破砕帯と双葉破砕帯−に挟まれた地域の中央部を占めている。地質的には、東部阿武隈山地の主体を成す深成岩の内花崗閃緑岩の分布地域である。小夜姫の涙付近も花崗閃緑岩から構成されており、粗粒のカリ長石を伴う、角閃石黒雲母花崗閃緑岩が分布しています。岩相から玉ノ湯花崗閃緑岩と呼ばれているものの一部と思われます。玉ノ湯花崗閃緑岩は、中生代白亜紀前期の後半(1.1億年〜0.95億年前頃)に地下深部にマグマが貫入して固まった深成岩であり、一億年近い時間をかけて地殻上昇と風雨による侵食によって地表に露出するようになったものです。 3.湧水機構要
4.水質分析
水質分析結果より、「小夜姫の涙」と「北側湧水」は、硫酸イオンの溶存の有無という部分では大きく違いますが、「北側湧水」での硫酸イオン濃度は2.4(mg/L)と少量であります。その他の成分については双方とも大差がないことから、2つの湧水は同一の湧出機構と考えられます。すなわち、地表面で確認できる湧出面は離れていますが、地中での水脈経路は途中までは同じであり、どこかで分岐した後に地表で湧出していると推定されます。 ヘキサダイヤグラムではいずれの湧水もNa-HCO3型を示しております。小夜姫の涙の方は硫酸イオンが溶存していないため、炭酸水素イオンが突出した形を示しておりますが、溶存しているイオン濃度には大差がありません。 また、トリリニアダイヤグラムではI型とV型の境界付近に区分されています。表2より?型も?型も浅層地下水であることは共通事項ですが、V型は河川水や伏流水との交わる可能性がある「ごく浅い部分」の地下水に属します。 では、今回取材した小夜姫の涙と北側の湧水が?型と?型のどちらの性質を有しているかと検討するにあたり、硝酸イオン(NO3-)の溶存割合に着目しました。 地下水中に硝酸イオンが添加されるのは、地表面において雨水や融雪水が肥料等の窒素化合物と接触した後に地中に浸透して、地下水中に添加される場合や、石油等の燃料を燃やすことによって大気中に窒素化合物が拡散し、水蒸気と結びつくことで、雨水となって地中に浸透した場合が考えられます。 各湧水における硝酸イオンの溶存量はイオン当量で0.003(me/L)とごくわずかであり、ヘキサダイヤグラムには炭酸水素イオンと塩素イオンをつないだ線と重なり、グラフとしてはほとんど反映されていません。また、湧水の湧出地点は切り立ったがけとなっており、湧水の上流側に耕作地などの存在は確認されていません。 以上のことより、「各イオン成分の溶存割合がほぼ同じ」「硝酸イオンの添加源が降水以外には見あたらない」といった事項を考えると、「小夜姫の涙」と「北側湧水」はI型に属する湧水と考えられます。
5.小夜姫の涙の伝説 実際、小夜姫が脚をひたしたのが今の「小夜姫の涙」かどうかは定かではありませんが、岩の割れ目から流れる湧水の様子を、古の人は実家の里に帰ることが出来なかった小夜姫の悲しみから流れた涙のように見えてこの名前がついたものと考えられます。 『美女泣かせのせせらぎ』 昔、野上の里の下手に住む忠兵衛という名の長者が住んでいました。忠兵衛には小夜姫という一人娘がおり、生まれてから何一つ不自由なく、蝶よ花よと育てられてきましたが、にはち二八(現在でいうと16歳位)の時、毛戸の里の糠塚長者の跡取りのもとに嫁いでゆきました。
6.おわりに 最後になりましたが、湧水の由来を教えていただき、民話集の資料を提供いただきました大熊町役場産業課の皆様に紙面を借りて厚く御礼を申し上げます。 |
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